ボンソワール

僕が住んでいるところは、学生寮のようなもので、トイレやキッチンは共有。シャワーもある部屋とない部屋がある。そのため自然と外に出る機会が出て、同じ階に住む人間は大体おたがいに把握している。

住んでいる人の国籍も様々で、メキシコから来ている人もいればフランス人もいる。フランスにいるだけに、出会う外国人とはたいていフランス語で話すのだが、この寮の住人のうち2割くらいの人は大学で英語しか話さないのだろう、フランス語があまり得意ではないが、それでも挨拶くらいはフランス語だ。ボンジュール(こんにちは)とかボンソワール(こんばんは)とか言い合って過ごしている。

 

そんな中、同じ階にかたくなにフランス語を使わない女性がいる。いつ会ってもハイ、と挨拶。こちらがフランス語なのに、常に英語である。たしかにフランスでフランス語を使うと逆に一般人として見てくれないというか、子供扱いされたりすることもある――日本で外国人が片言の日本語だとちょっと愛嬌があるように見えたりするように――ので、英語で話し続けるのは彼女のプライドからなのかもしれないと思う。実際気の強い人で、友達と騒いでキッチンを占領しているのに「パーティなんてしたこともないわ」と冗談を言ってきたり、ときどき言い争っている声も聞こえる。なんとなく苦手だなぁと思っていた。

 

しかし、一度だけ彼女がボンソワールと言ったことがある。

その日、僕はキッチンで料理をしていて、鍋や材料なんかを手に持って自分の部屋と行き来していた。なんだかんだ言って自炊は好きな物が食べられるので外よりも好きだ。というかパリでは外食は友達と飲むとき、と相場が決まっているので割高なのだ。その日もパスタか何かを作っていた。

突然、彼女が部屋から飛び出してきた。しかもすっぴんにバスタオル一枚の姿。彼女の部屋はトイレの真ん前だから、トイレに行くつもりだったのだろう。こっちはというとネギとニンジンとピーラーを持っているところだった。お互い思いがけない姿に、うわ、という感じ。なんか申し訳ない、いや、別にこっちは悪くない、というか被害者だ、けどやっぱりばつが悪い。僕がとっさに気を取り直してボンソワール、と言う。こんな状況でこんばんはもへったくれもないのだが。すると彼女もボンソワールと返したのだ。さっさと通り過ぎてキッチンへ戻る僕。さっきのはなんやったんやと思いつつも、ボンソワールって言わせたったぜとなぜか勝った気分になったのだった。